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『昭和の青春ポップス』で、【作詞家・作曲家列伝】を連載しています。
その中で、日本の音楽を作り上げてきた作詞家、作曲家の巨匠たちを紹介しているのですが、
どの先生もその作品同様に味のある人生を送ってきています。
先生は、震災と原発事故にダブルで直撃された福島県福島市の出身です。
その人生や作品を振り返ると、今こそ、先生が必要だ! そう思わずにはいられなくなります。
作詞家・作曲家列伝 古関裕而
さて、今回は、作曲家の古関裕而さん(1909年<明治42年>8月11日-1989年<平成元年>8月18日)をご紹介します。生涯5000曲を生みだした天才的な作曲家、古関さんは福島県福島市に生まれ、育ちました。
日本人の心に残る、代表的な作品には……1931年早稲田大学の応援歌「紺碧の空」、1953年国民的ラジオドラマ「君の名は」のテーマ曲、1954年「高原列車は行く」、1964年東京オリンピックで使われた「オリンピック・マーチ」、1970年慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、1961年映画の挿入歌で大ヒットした「モスラの歌」(歌:ザ・ピーナッツ)……などがあります。
古関さんのメロディーからは、常に故郷に対する愛情を感じることが出来ます。というか、美しいふるさと”福島”、自分を育ててくれた土地や人々に対する敬愛の心が、素晴らしいメロディーの原点にあるのです。その故郷愛は、古関さんの様々な楽曲からにじみ出ています。
古関さんの人生は、ドラマに満ちていました。まず、1929年(昭和4年)、若干20才での作曲家デビューが鮮烈でした。自作の“管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』”を英国の作曲コンクールに応募し、2位に入賞したのです。日本人として国際的作曲コンクールにはじめて入賞したのでした。名もない地方のアマチュア作曲家が、一夜にて名声を得ることができるのが、公募の素晴らしさです。さらに、このニュースを新聞で知った愛知県の内山金子(きんこ)さん(当時17才)が古関さんにファンレターを送り、熱烈な文通の後、1930年に、スピード結婚をしています。古関さんは、大変な情熱家でもあったようです。
よく県民性という言葉を耳にします。福島県のそれは、「頑固、陽気で社交性が強いわりには、芯がしっかりしていて我が路を行くというタイプが多い」らしいです。思いこんだら一途! という古関さんの雰囲気が見えてきますね。
さて、この受賞を機に、コロムビアの顧問であった作曲家、山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家となり、夫婦で上京します。しかし、古関さんの実家の商売が経営的に破綻し、彼が一族の面倒を見なくてはいけない立場になっていましたから、本来、クラシック系の作曲でその才能を思う存分伸したかったはずですが、ヒット曲、つまり歌謡曲を書くような方向にシフトしていったのです。
彼は、1931(昭和6)年、コロムビア専属を記念したレコードを発売しました。収録曲は、「福島夜曲(セレナーデ)」と「福島行進曲」の2曲です。これも、いかに彼が福島思いの福島県人であるかが分かるエピソードですね。
しかし、彼の作った曲は、その後数年、あまり売れなかったそうです。クラシックと歌謡曲のギャップを埋めるための時間だったのかも知れません。
そして、デビュー5年で記念すべき大ヒット「船頭可愛や」が誕生しました。一般的にぽっと出の新人がヒットを飛ばしても、一発屋に終わることが多いのですが、下積みの長い人がヒットを出すとちゃんと後が続きます。
古関さんも、ヒット曲作りや人の心に残る曲作りの手応えをこの時に肌で感じたに違いありません。
ここからは、古関さんの作品のエピソードを紹介しながら、彼の本質に迫っていきたいと思います。
まずは、「高原列車は行く」。古関さんの郷土思いが形になった名曲です。この列車は、猪苗代湖の沼尻鉄道でした。
やはり福島県出身で、古関さんの後輩にあたる作詞家の丘灯至夫さんが、幼い頃の郷里の想い出をまとめた歌詞に描いたのは、沼尻、中ノ沢などの温泉、鉱山から鉱石を運び出すトロッコ風の「軽便鉄道」、裏磐梯や白樺が立ち並ぶ牧歌的風景のイメージでした。
まさに、福島!
しかし、その歌詞に古関さんが乗せた旋律は、まるでスイスかオーストリアの雰囲気のメロディーでした。
古関さんには、ふるさと”福島”がこのメロディーのような、爽やかで美しい場所に映っていたに違いありません。
そして、丘さんはこの歌を聴くうちに「この歌詞には、この曲以外にない」、そう確信したそうです。
さて、日本の行進曲の頂点に立つといっても過言でないのが、「オリンピック・マーチ」です。
古関さんは、素晴らしい行進曲<マーチ>を沢山作り、日本のスーザと呼ばれていたほどでした。
スーザは、アメリカの作曲家で、「星条旗よ永遠なれ」などを作曲し、マーチ王と尊敬されていました。
古関さんが作曲した、もう一つの行進曲の代表作品が、全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」です。
日本の夏を彩る名曲ですね。いかに多くの日本人が、古関さんのメロディーから勇気や感動を得てきたか!
今一度、ありがとうございますと伝えたいです。
さて、その日本のスーザに、アジア初のオリンピック行進曲の作曲が依頼されたのです。
古関さんは、娘さんの想い出によれば、“尋常でない”喜び方をしたそうです。
しかし、「日本のイメージを世界にアピールしよう!」「日本の良さを世界から集まる一流のアスリートに感じて貰おう!」、
思えば思うほど、この作曲は困難を極めたそうです。
雅楽、邦楽、民謡など、どれをとってみても日本的なメロディーは、どうしても行進曲に馴染まないというのが彼の結論でした。
頑固一徹な福島県人気質! 中途半端では満足出来ません。
結果、彼は原点に戻りました。 「一番、自分らしいメロディーで曲を作る! それが一番良い!」。
では、日本らしさはどこへ入ったのでしょうか?
答えは、「オリンピック・マーチ」の最後の最後の数小節にありました<リンク先のオリンピクマーチ、3分53秒から>。
なんと日本国歌「君が代」の最後の一節をうまく「オリンピック・マーチ」の中に織り込んだのです。
古関さんが、素晴らしいアイデアの人であり、日本を本当に愛していたと分かるエピソードですね。
40才以上の方なら、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?古関さんは、こういう異国情調たっぷりの不思議なメロディーもお得意だったのですね。このインドネシア語の呪文 ♪モスラヤ モスラ ドゥンガン カサクヤン インドゥムゥ ……にメロディーをつけた古関さんは、何を思いながら作ったのでしょうか?
先ほどの呪文は、「モスラよ/永遠の生命 モスラよ/悲しき下僕の祈りに応えて/今こそ 蘇れ/モスラよ/力強き生命を得て 我らを守れ 平和を守れ/平和こそは/永遠に続く/繁栄の道である」という意味だそうです。この呪文、実は、平和を祈る歌だったのですね。
このモスラの故郷は、太平洋にあるインファント島です。映画での設定は、なんと某国の原水爆実験場なのです。放射能に汚染されているはずの島の守り神的存在が、ピーナッツ演じる小美人。
そして、ふたりは平和を祈る象徴なのです。古関さんは、もちろん歌詞そして映画のテーマでもある「平和こそは永遠に続く繁栄の道である」を強く心に描いて作曲したと思います。
しかし、福島生まれの古関さんが、放射能汚染の島の小美人の平和の祈りを作曲していたとは!
そのちょうど、50年後の2011年、福島は大震災に見舞われ、福島の原発では放射能事故が起きてしまいました。古関さんは、まるで予言する形で、同曲を作曲し、平和と祖国の無事を祈っていたのです。
実は、古関さんが子供の頃に忘れることが出来ない歴史的な出来事がありました。そこで、命の大切さや自然のパワーを身をもって感じたのでした。
それは、古関さんが14才の時(1923年)におこった、マグニチュード7.9の関東大震災(死者約10万人、行方不明約4万3000人、全壊家屋は12万戸、全焼家屋44万戸)です。福島もかなり揺れたそうです。彼は、その時の想いを込めて、その後、交響楽短詩「大地の反逆」を作曲したのです。
福島を、そして日本を 誰よりも心から愛し、またモスラを通じ平和の祈りを発信した古関さん!
もし、2011年3月11日以降の日本を見たら、どんなメロディーを作り出し、我々の心に伝えてくれたのでしょうか?
今こそ、古関裕而先生のメロディーをもう一度聴き返す時が来たのです。
福島県福島市には、古関裕而記念館があります。
先生の魂が、守ったのでしょうか、建物はほとんど無傷で助かったそうです。
古関裕而さんは僕の小さい時にはテレビでよく拝見していました。
高木東六さんや作詞家の藤浦洸さんなども、当時盛んだった一般視聴者参加の歌番組で見ない日はないくらいでした。
自分の中にも昭和歌謡の幾多の諸先輩・先生方のエッセンスがしみ込んでいるのだろうなと、改めて懐かしく想い出しました。
古関裕而さんはその中でもクラシックの素養が基礎となっている方だと想いますし、当時は歌手でも音楽学校卒業で歌謡曲の歌い手となったスターも多かったようですね。それが音楽性や歌に現れてその時代の音楽シーンを彩っているように想います。
『モスラの歌』も『栄冠は君に輝く』も後世に残る名曲ですが、『高原列車は行く』も先日のNHK「想い出のメロディー」(大阪放送局制作)で歌われていて、良い曲だなと聴き入っていました。
「昭和の青春ポップス」を拝読していろいろと想うところがあります。またのコラム紹介をよろしくお願いします!
お返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
ちょうど その辺り 東京と大阪のセミナーで
ドタバタしておりまして……お返事を失念しました。
こちらの方でも、昭和の青春ポップスのコラムを いっぱい紹介したいと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。