<公募ガイド社 昭和の青春ポップスより 転載>
さて、今回は、作編曲家・音楽プロデューサー、アーティストの加藤 和彦(かとう かずひこ、1947年3月21日 - 2009年10月16日)さんをご紹介します。
加藤さんの一生を通しての仕事の範囲の広さや深さ、革新性……は、想像を絶するものがあります。 作曲・編曲・アーティスト・ギタリストとしての活動。フォークからロック、アイドル、CM、コミカルな音楽、スーパー歌舞伎に映画音楽……。
そんな加藤さんですが、 「でも、音楽から逸れたことは一回もないんだけどね。ジャンルとしてはフォーク、ロック、歌舞伎から映像音楽とか全部入れちゃうとすごいジャンルになるけど、みんな音楽だからね」 (musicman-netサイトより引用)と事も無げです。そこが加藤さんの魅力でもありますね。
実は、僕が音楽を志すきっかけの2番目が加藤さんのデビューであったザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)でした。中学生の僕には、当時の加藤さんが神様のように思えたものでした。
実は、僕の原点の1番目は、ビートルズです。 フォークルがデビュー当時、日本のビートルズと称されていたのも、僕にとっては当然でした。 加藤和彦さん! 日本の音楽界にとって、そして僕にとって、どんな人だったのか思い返してみたいと思います。
彼は、フォークの神さまボブ・ディランの「くよくよするな」 という曲を聴き、ギターにはまったそうです。
そして、フォークバンドを組みたくて、龍谷大学1回生の時にファッション雑誌『メンズ・クラブ』誌の読者欄でメンバーを募集し、ザ・フォーク・クルセダーズを結成しました(当時は、クルセイダーズと表記)。
このメンバー募集に反応して駆けつけた中に、その後、一生の相棒となる北山修 さんがいました。 北山さんは医大生で、後に精神科のお医者様となります。加藤さんが、最期、鬱病でその命を自ら絶った事は、不思議な運命のようにも思えます。
1968年、アマチュアグループのフォークルの解散記念でレコーディングした自主制作アルバムに収録された「帰ってきたヨッパライ」 で、加藤さんは一年間限定でプロとして活動しはじめました。
この曲を聴くと加藤さんのワンランク上のセンスが垣間見えてきます。 アメリカで大ブレイクしていたアニメ「チップマンクス」 の声(テープの早回しボイス)からインスパイアされたのでしょうか?
英会話練習用の一般用テープレコーダーを早回しして、声やギター音を変え、オリジナルソングを作る事をひらめきます。今で言う宅録(自宅録音)の走りですね。
イントロでは、長調と短調の構成音をぶつけた摩訶不思議かつ印象的なギター和音を作り出し、間奏では、さりげなくオッフェンバック作曲の「天国と地獄」のメロディーを挿入するなど突き抜けた音楽センスが伝わってきます。それでいてコミカルでシニカル!!
200万枚以上売れたこのシングルは、アマチュアの彼らが宅録で作った音源そのままが使われました! フォークルの第二弾は、イムジン河 でした。しかしご承知の通り、発売中止となってしまいました。 ここで加藤さんは、出版社フジパシフィック会長、石田達郎さんから3時間会長室に缶詰にするから今すぐに曲をかけと言われ、1曲ひねり出します。
その直後、加藤さんは石田さんに連れられ、詩人のサトウハチローさん の所に行き、歌詞をお願いすることになったのです。この間、加藤さんを信じた石田さんは、そのメロディーを一切聴きもしなかったそうです。
そして、完成したのが名曲「悲しくてやりきれない」 でした。若干20才位にして、この深みのある悲しみに満ちたメロディーを書ける才能。まさに天賦の才です。
予定通り、1年でフォークルを解散した後、加藤さんは学生としては法外な印税を手に、アメリカやヨーロッパを旅しました。ここでも、彼のスケールの大きさを感じます。
イギリスに渡り、「ここが僕の街だ!」と感じた加藤さんは、世界最先端の音楽やアートの空気を思い切り吸い込みました。
そして、印税をはたいて、ロックバンドが野外でもコンサートが出来る音響機材(PAシステム)一式をイギリスで買ったのです。当時の日本には、そういった機材は皆無でした。今のライブの音響システムの基礎を作ったのは、まさしく加藤さんでした。この頃22,3才!
生みだすもの凄ければ、発想も行動力も桁外れでした。
そして、ロンドンの最先端の空気をそのままに、日本で最高のミュージシャンを集めたスーパーグループを作ったのが、サディスティック・ミカ・バンドです。天才ギタリスト高中正義、後にYMOのメンバーとなる高橋幸宏などが加入しました。
ミカ・バンドは、イギリスで認められ、日本でもその認知を高めていきます。
良い音を作るには、本物を知る必要があるとばかりに、加藤さんはメンバー全員をイギリスに遊びに連れて行ったそうです。
つくづく本物主義! 超一流。
彼の愛称が「トノバン」というのも納得です。お殿様のトノから・・・それに加え、彼が好きだったイギリスのシンガーソングライター、ドノバヴァンをもじったものですが、殿の貫禄いっぱいだったのですね!
さて、ミカ・バンドと平行で、加藤さんはアーティスト業、作曲業そしてアレンジ&プロデュース・ワークに励みます。
「あの素晴しい愛をもう一度」(加藤和彦と北山修)、映画音楽として「だいじょうぶマイ・フレンド」や「探偵物語」、「不思議なピーチパイ」(竹内まりや歌/プロデュース・作曲・アレンジ担当)、
「春夏秋冬」(泉谷しげる歌/プロデュース・アレンジ担当)、「結婚しようよ」(吉田拓郎歌/アレンジ担当)……など大活躍です。
しかも、これに加えて、90年代からは、歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた革命的歌舞伎音楽も手がけます(市川猿之助のスーパー歌舞伎)。
素晴らしすぎる大活躍と言っても過言ではありません。
さて、加藤さんは、1977年、作詞家の安井かずみと再婚します。まるで双子のようなカップル! 安井さんは、アメリカやヨーロッパで生活し、加藤さん同様に音楽や絵画やお料理をたしなむ素敵な女性でした。
1960年代、東京の文化人・芸術家・アーティストが集った、イタリアンレストラン「キャンティ」でそのオーナー川添梶子さんから、一流の女になるための徹底的な手ほどきを受けたのでした。
77年から安井さんが癌で亡くなる94年までの結婚生活が加藤さんにとって、最高に幸せな時間だったのでしょうね。この経緯は、いつか本稿で安井さんを特集するときに、掘り下げてみたいと思います。
加藤さん55才の誕生日(2002年)に、1968年発売中止となった「イムジン河」がCDとなって再発売されました。34年のくやしい思いが、これで少しは解消されたのでしょうか?
←イムジン河 再発売CD!
音楽的にやりたいことは全てやってきた! と言い切れる人生だったのではないでしょうか?
2008年のmusicman-netサイトのインタビューで加藤さんは、アーティストとしての今後の目標を聞かれて、「いやあ、あんまりないから困ってるんだよ(笑)。何をしたいっていうのもないから」と答えています。
やり遂げてしまったのか? たまたま今見えないのか?
常に超一流を追求してきた加藤さんは、2009年10月17日、長野県軽井沢町のホテルであの世に旅立ちました。享年63(満62歳没)。鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたそうです。
野口は、 10数年前、加藤さんとご一緒に音楽セミナーで講演をする機会がありました。
とにかくあこがれの加藤さんが目の前にいらっしゃるのです。僕を音楽に導いてくれた大先輩です。
「ずっと大ファンです!」
まるで少年のように、感謝の言葉を述べることが出来ました。
「ありがとう!」
そう答えてくれた加藤和彦さんの笑顔からにじみ出てくるオーラ、優しさ、人間的な大きさ……に圧倒されました。 彼を見、彼から学んできたミュージシャンは、日本に数限りなくいると思います。 間違いなく、日本のポップスを10歩も100歩も進ませたのが、加藤さん! そう信じています。
野口義修Officialブログにも 加藤さんの記事があります